高木元右衛門銅像

高木家の祖先は近江高城ので。永生年間(一五〇四〜二一)に菊池氏に仕官した。滅亡後浪人となり深川村に居住。代々軍陣笛方の家柄で、「瓦落しの笛」は有名であった。加藤清正の「漢竹の笛」を子忠広にもらい、また「乱舞の舞」の修得を命じられた。後水尾天皇直筆の和歌「諸人の立舞ふそで(袖)も長閑成、雲井の春や千とせをみずらむ」と下賜される。

肥後藩初代藩主細川忠利には一〇人扶持で召し抱えられ、天草・島原の乱には笛を持って参陣した。その後も代々「笛一道」を家業とした。細川光尚・綱利の代から能の笛方を勤めた。

高木家は代々「譲音」を名乗り、『御能番組』が伝わる。元右衛門も万延元(一八六〇)年七月、細川二位公(韶邦)の家督相続の「御祝能」を勤めた。

高木元右衛門は、天保四(一八三三)年、父甚之助の次男として菊池郡深川村(現・菊池市深川)に生れた。笛方の家業を継ぐとともに、深川に兄治三兵衛が開いた剣術道場で、剣術・柔術・居合術・槍術を修め、元右衛門自身も門人三八〇余人を数えた。特に剣術・槍術の名手で、藩内外の他流試合では勇名を馳せた。一時、玉名郡荒尾村の宮崎家養子となった。

元右衛門は、尊王攘夷の志厚く、文久二(一八六二)年には、細川護美の禁門警備に河上彦齋・中津彦太郎(菊池郡水次村出身)らと共に随行、翌三年五月に肥後藩選出の親兵となった。八月十八日の政変では、三条実美ら七卿落ちの護衛のために脱藩、また三条実美の命を受け、深川策助の変名で上方の情報探索に奔走した。

元右衛門は、元治元(一八六四)年六月五日、京都の池田屋で長州・土佐・肥後藩の尊攘派らと会合中、新鮮組の近藤勇・沖田総司らの襲撃を受けた。この池田屋事件で、肥後藩の宮部鼎蔵は自刃、松田重助は斬殺、元右衛門は近藤勇に脇差と短刀で応戦、包囲を脱出した。

翌七月十九日(二十日説あり)、元右衛門は中津彦太郎らと共に、池田屋事件の報復を兼ねて「禁門の変」に参戦した。長州藩兵の先峰として、会津・薩摩藩兵の警護する禁門(蛤御門)に、両刀振りかざして切り込んだ。会津藩兵の銃弾は、股と隔(胸と腹の間)を貫通、その勇猛さと壮絶な死姿に首級を挙げなかったという。享年三十二歳。


 討入朝の辞世 太刀刀 ぬきはなちたる 今日よりは 治る御代の 始とそしれ
 辞世の歌   屍をば 都の苔に 埋め置きて わが大君の まもりとやせむ


元右衛門の墓は深川共同墓地に隣接した高木家墓所内にある。また京都東山の霊山神社境内には、長州藩殉死者の墓標群の中央に「肥後 高木元右衛門源直久墓」が建っている。なお中津彦太郎は、二十二日天王山で、同志十七人と共に刺殺・割腹した。享年三十二歳。中津彦太郎の名は、同境内に明治三(1870)年九月建立の熊本県「各名招魂碑」の中にある。また「肥後 横井小楠之神霊」の墓碑もある。


文学博士 堤 克彦 謹書

高木元右衛門銅像
高木元右衛門銅像
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2011/1/26 12:20 [ 10302hit ] 
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