菊池の歴史 略年表 No1

菊池の歴史 略年表 No1
西暦
年号
菊池のうごき
[ ]内の数字は菊池氏の代を示す
日本の動き
    6世紀後半、木柑子古墳できる  
      527 磐井の反乱おきる
    6世紀後半袈裟尾高塚古墳できる 彩色の装飾古墳が発達
      新羅に任那滅ぼされる
    6世紀後半、築地横穴群できる 645 大化改新はじまる
663
天智2
このころ、鞠智城築かれる(推定) 白村江の戦に日本破る
709
和銅元
西寺の無量山西福寺開山という(菊池風土記) 710 奈良の平城京遷都
807
大同2
河原四宮神社が創建といわれる(菊池風土記) 794 京都の平安京遷都
938
天慶元
輪足山東福寺を證慶法院が開基(菊池風土記)  
1070
延久2
[1]藤原則隆 大宰府の荘官として菊池に来る  
1109
天仁2
[4]經宗 鳥羽院の武者所に出仕する  
1180
治承4
[6]隆直 平氏に反抗、大宰府を焼く(養和内乱) 源頼朝が挙兵
1182
寿永元
隆直 平氏追討使に攻められ、糧食がつきて降る 1181 平清盛死す
1185
文治元
隆直 菊池家の「日足紋」を「揃鷹羽紋」に改める 平家壇ノ浦戦で滅ぶ
1186
〃2
隆直 源氏軍に敗れて京都で義経に惨殺される  
    [5]經直 肥前で流鏑馬に出場し、落馬し死去す 1192 頼朝征夷大将軍
1221
承久3
[7]隆定 承久の乱で敗れ、所領一部没収される  
1274
文永11
[10]武房 元寇で、博多に出陣する(文永の役)  
1281
弘安4
再度の蒙古襲来に一族で参戦する(弘安の役) 1293 襲来絵詞できる
1304
嘉元2
[11]時隆 叔父と家督を争い、刺し違えて死ぬ  
1327
嘉暦2
大智、加賀国に祗陀寺を開く  
1333
元弘3
[12]武時、探題邸を襲撃し討死(袖が浦の別れ) 鎌倉幕府滅亡
1336
延元元
武村、新田義貞軍に属し、大渡橋上で討死 南北朝の対立
    武敏、足利軍と多々良浜(福岡)で戦うが破れる  
    武吉、湊川の戦いで楠正成らとともに自刃する  
1338
〃3
武重、「寄合衆内談の事」(菊池家憲)を定める  
    少弐頼尚、稗方原にて菊池勢と対戦する  
1341
興国2
[14]武士、武重の死後、肥後守を継ぐ  
1344
〃5
[15]武光、合志幸隆から菊地城を奪還し家督継承  
    武光、熊耳山正観寺を建て、菊池五山制を定める  
1348
正平3
懐良親王、征西将軍として菊池に入る  
1351
〃6
大智禅師、聖護寺を出て玉名の広福寺に入る  
1353
〃8
懐良親王、武光らを率いて筑後高良山に陣する  
1355
〃10
武光、懐良親王ら九州北部を抑えて、大宰府を占領 倭寇の活動盛んになる
1359
〃14
武光、懐良親王を奉じ、大原(筑後川)合戦で勝利 1358 足利尊氏病没
1361
〃16
征西府が大宰府に移される  
1362
〃17
武光、長者原の戦いで大友・少弐軍を破る  
1365
〃20
懐良親王、大宰府に征西府を置く(全盛時代)  
1367
〃22
[16]武政、肥後守となって、菊地城(守山城)を築く  
1368
〃23
懐良親王、武光らと東上計画(上洛)を決行し失敗 足利義満将軍となる
1369
〃24
明の使者が征西府にきて、倭寇の禁止を求める  
1370
建徳元
今川了俊(貞世)、鎮西探題となる  
1372
文中元
今川軍に征西府占領され、武光ら高良山へ退く この頃「太平記」できる
1373
〃2
武光死亡か(74年武政も久留米の高良山で死亡)  
1374
〃3
[17]武朝、懐良・良成両親王を奉じ、隈府に帰る

 

1375
天授元
[17]武朝、今川了俊軍を水島の戦いで破る  
    懐良親王、征西将軍の職を良成親王に譲る  
1377
〃3
武朝、肥前蜷打にて今川軍に敗れて、肥後に退く  
1378
〃4
武朝、阿蘇北の宮勧請して、社殿を建てる  
    武朝、良成親王らとともに今川・大友軍を託麻原で破る 足利義満室町第に移る
1379
〃5
今川軍、肥後に入り、板井原に陣して、菊池城を攻める  
1380
〃6
今川軍、水島城を落とす  
    貞継、肥後守護守となる。  
1381
弘和元
菊池本城、足利方の今川軍に攻められ落城する  
1383
〃3
懐良親王亡くなる  
1384
元中元
武朝「申状」を吉野朝廷に差し出す(群書類従)  
1392
〃9
武朝、菊池に帰り、改めて肥後守護となる 南北朝が合一する
1407
応永14
武朝死去 [18]兼朝が家督を継ぐ 1397 義満金閣寺建造
1419
〃26
蒙古・朝鮮郡が対馬を犯す 兼朝ら敵を撃退す  
1431
永享3
馬か岳(福岡)合戦後、兼朝 [19]持朝に家督を譲る  
1432
〃4
持朝、筑後守護職となる  
1446
文安3
持朝死去(兼朝死後2年目) [20]為邦が家督を継ぐ  
1449
宝徳元
このころ菊池の文教盛んになる  
1452
享徳元
このころ為邦、江月山玉祥寺を建立する  
1462
寛正3
足利義政、筑後守護職の半分を大友政親に与える  
1465
〃6
為邦、筑後領奪回のため大友と高良山で戦い敗れる  
1466
文正元
為邦、家督を[21]重朝に譲る 1467 応仁の乱起こる
1472
文明4
重朝、隈府に孔子堂を建てる  
1481
〃13
重朝、菊池で連歌一万句の会を催す  
1485
〃17
重朝、相良為続と矢部・幕平で戦って敗れる  
1493
明応2
重朝死去、[22]武運が家督を継ぐ  
1501
文亀元
武運、宇土為光に叛かれ、島原にのがれる  
1503
〃3
武運、能運と改名する  
    能運、城・隈部の助けをかりて、為光を破り、菊池に帰る  
1504
永正元
能運死去、菊池家正統絶える  
    [23]政隆、跡を継ぐ  
1505
〃2
阿蘇惟長が肥後守護となり、菊池武経と称す  
1511
〃8
詫磨武包が菊池氏を継いで肥後守護となる このころ大友氏勢力強大
    武包、大友氏に追われて、菊池を猿  
1520
〃17
大友重治(義宗)菊池義武と称して、肥後守護となる  
1534
天文3
義宗、菊池をのがれ八代に行き、相良義滋を頼る  
1543
〃12
大友義鎮(宗麟)、肥後守護となる 鉄砲が伝来する
1551
〃20
赤星親家(道雲)、隈府城主となる 1549 キリスト教伝来
1559
永禄2
城・赤星・隈部氏(家老)勢力争い、大友氏これを利用  
1561
〃4
親家病死、子の親隆(道半)が隈府城主となる 1573 室町幕府が滅亡
1578
天正6
龍造寺政家が道半を破り、隈部親永を隈府城主に 1582 本能寺の変
1587
〃15
佐々成政が肥後守となる隈府城を落とす 肥後国衆一揆起こる
1588
〃16
加藤清正と小西行長が肥後を分割領有する 刀狩り霊(兵農分離)
    加藤伝蔵が隈府城番となる  
1600
慶長5
加藤清正肥後52万石を領有する 関ケ原の戦い
1602
〃7
菊池能運肖像画(菊池神社所有)が描かれる  
1603
〃8
  徳川家康江戸幕府を開く
1604
〃9
肥後国検地帳・郷村帳を作成 諸街道に一里塚を築く
1606
〃11
西照寺が井出端に創建される  
1607
〃12
隈本を熊本に改める 熊本城が竣工
1608
〃13
  領内の総検地行われる
1611
〃16
  清正熊本城にて病死
1612
〃17
  幕府直轄領に禁教令
1613
〃18
正林寺が赤星に創建される 阿蘇山大噴火
1615
元和元
一国一城令で隈府城は空城となる 武家諸法度を定める
    大津街道に杉並木が植えられる  
1619
〃5
肥後大地震 麦島城が崩壊
1625
寛永2
照厳寺西寺に創建される 熊本地方地震城内被害
1631
〃8
妙蓮寺立町に創建される  
1632
〃9
細川忠利が領主として小倉より写る 加藤家の肥後所有没収
1633
〃10
人畜改め領内の地撫を実施する 第一回鎖国令
1634
〃11
渋江公俊 天地元水神社を創立する 手永制が敷かれる
1635
〃12
菊池市の石高約一万五千石  
1637
〃14
  天草・島原の乱起こる
1643
〃20
  阿部一族の乱起こる
1664
寛文4
切支丹影踏みの実施  
1668
〃8
興福寺が平野に創建される  
1672
〃12
「嶋屋日記」が起筆される  
    隈府町大火 切明残らず焼失  
1676
延宝4
正月から3月まで雨降り続く  
    7月下町から出火 上下町焼失  
1680
〃8
大飢饉で餓死者多数  
1685
貞享2
水戸家臣 佐々助三郎来隈し一泊する  
1687
〃4
旧冬より疱瘡流行し子供ら20人死亡 生類憐みの令出される
1691
元禄4
阿蘇山大荒れ大噴火  
1701
〃14
河原杢左衛門尽力し原井手竣工  
 
〃15
  赤穂浪士吉良邸に討入
1703
〃16
西迫間井手竣工  
1705
宝永2
今村井手(宝永隧道)竣工 菊池米の声価上がる
1713
正徳3
  肥後藩の財政窮乏
1716
享保元
在町での商売取り締まり強化  
1723
〃8
大地震で北宮神社の鳥居落ちる  
1725
〃10
隈府町大火残らず焼失する(翌年も大火) このころ寺子屋が普及
1731
〃16
犬のはしか(狂犬病)が流行る  
1732
〃17
肥後藩大飢饉 幕府から二万両を拝借  
    飢餓で椎・樫の実、葛の根などを食べる  
1737
元文2
  振売(行商)の禁止
1739
〃4
高之瀬の観音堂できる  
1742
寛保2
大洪水にて野間口など川筋損す  
1748
寛延元
渋江紫陽の私塾「集玄亭」創立される  
1749
〃2
旅商人の在中直売買を禁止  
1752
宝暦2
  細川重賢の宝暦改革
1753
〃3
田畑の譲地・質地を厳禁する 藤崎宮の富講興業
1754
〃4
「菊池苔」を土産品として幕府へ献上 藩校「時習館」開設
1764
明和元
蔵六庵を隈府町屋敷に創立する 翌々年「再春館」開設
1765
〃2
杢左衛門が河原井手を開く  
1768
〃5
前代未聞の大早魃(5?8月)畑作半毛  
1774
安永3
細川藩主花房原で鷹狩りを行う  
1776
〃5
麻疹・疫痢・赤痢流行小児60人余死亡  
1778
〃7
中嶋伊次郎「御触状諸達扣」を起筆  
1779
〃8
正観寺に武光神道碑ができる 阿蘇山大爆発降灰基金
1782
天明2
天明の大飢饉が全国に広がる  
1787
〃7
  熊本・川尻で打ち壊し
1792
寛政4
雲仙岳大爆発(島原大変・肥後迷惑)  
    渋江松石の私塾「星聚堂」創立される  
1794
〃6
渋江松石「菊池風土記」を著す  
1796
〃8
松囃子能の定舞台ができる 辰の年大洪水
1810
文化7
  伊能忠敬測量で肥後へ
1813
〃10
古川井手開かれる  
1814
〃11
このころの河原・深川惣人数8872人  
1815
〃12
今村河原で刑が執行される  
1818
文政元
大旱魃により深川・河原手永で水争い  
1823
〃6
旧永山眼鏡石橋ができる  
1825
〃8
  異国船打払令がでる
1829
〃12
西迫間眼鏡石橋ができる  
1833
天保4
平山八左衛門らの努力で兵藤井手開通 このころ天保の大飢饉
1837
〃8
凶作で物乞い・行き倒れがふえる 大塩平八郎の乱
1843
〃14
隈府下町で170軒焼失の大火  
1854
安政元
矢部の通潤橋ができる(布田保之助) 日米和親条約
1860
万延元
立門眼鏡石橋できる 桜田門外の変
1862
文久2
麻疹流行町中軒別5?6百人罹る  
1864
元治元
禁門の変で高木元右衛門(32歳)死去  
 明治維新以後の続きはこちらから。
菊池の歴史 略年表 No1
菊池の歴史 略年表 No1
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2010/5/28 16:58 [ 12056hit ] 
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